「おしどり右京捕物車」という時代劇について 1

ヒーローは何故ハンデキャップを背負うのか?

 TV時代劇「おしどり右京捕物車」(全26回)を観た。

 この作品はご存知の方も多いと思うが、下半身の自由を失った元与力が手押し車を妻・はなに押させ、鞭と刀で悪人に立ち向かってゆく、という現在では地上波のドラマとして放送が難しい作品である。

 ハンデキャップを背負った時代劇ヒーローといえば、座頭市丹下左膳などがあるが、それらのヒーローにくらべてもリアリティという点で、かなり厳しい設定である。しかし、座頭市丹下左膳がそうであったように、この作品もいわゆるリアリティとは別な次元で、観る者を納得させるものがある。

 それは第1話で描かれる右京と妻・はなの失ったものの大きさである。第1話で右京は下半身の自由を奪われたばかりでなく、与力としての職や家を失い、妻・はなが身籠っていた子供さえ失ってしまう。右京の障害の程度が現代の医学でどの程度のものなのかは、劇中はっきりと描かれていないが、二人がもはや子供を望めないことは、いくつかの場面で示唆されており、人生のかなりの部分を失った夫婦の物語として、このドラマは始まる。

 人は人生において多くの場合、理不尽や不平等を感じながら生きている。失う者はより大きなものを失い、得る者はより大きなものを得る、といったように。だからこそ、人はフィクションにおいては、こういった喪失と獲得が釣り合ったものであって欲しいと願い、いわば不均衡の是正のために超人的な力をもった存在が求められる。つまり、ここでヒーローが必要とされるのである。

 しかし、ここで矛盾が生まれてしまう。理不尽な不均衡な世界を是正するために必要なヒーローは超人的な力を持たなければならないが、そもそもヒーローが凡人と違い超人的な力を持っていること自体が、不平等であり不均衡なことなのである。つまり何故ヒーローは我々と違い、超人的な力を得たのか、ということが問題となる。そこでヒーローは、超人的な力の獲得と引き換えに、それに匹敵する大きな能力や人生の大事なものを喪失している、という設定が必要とされるのである。ここで何らかのハンデキャップを背負ったヒーローが誕生するのである。

 ※ここでいうハンデキャップとは身体的な障害だけではない。例えば「刑事コロンボ」でコロンボはイタリア系の刑事が富裕層の犯人を追い詰めるというパターンが多かったが、このコロンボも(あからさまに強調はされてなかったが)ある意味でマイノリティという社会的ハンデキャップを持ったヒーローといえる

 多くの人が座頭市丹下左膳のリアリティに若干の違和感を感じつつも、長年にわたって支持してきたのは、以上のような、理屈というより潜在意識で、こうあって欲しい、こうあるべきだ、と感じてきたからだろう。

 この作品で、右京の殺陣のリアリティの低いという評価(手押し車を押す、はなが後ろから狙われたらどうするのか、といった当然の疑問)は当然あるだろうが、そういう次元で評価すべき作品ではないように思われる。この作品の評価が右京とその妻・はなが何を失い、何を得たか、そしてそれが観ている我々にとって納得できるものだったかどうか、ということだろう。要するに観終わった後で、腑に落ちたか落ちないか、ということである。その意味で佐々木守脚本の最終話をどう観るかで、この作品の評価は変わってくるだろう。この最終話について考えてみたい。