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くりーむしちゅー有田哲平の教養番組

動画配信番組「有田と週間プロレスと」を観た。

動画配信番組は数多くあるが、個人的には現在もっとも楽しみな番組だ。

これまでも「アメトーーク」や「オールナイトニッポン」などでくりーむしちゅー有田のプロレス話は十分面白かったが、いつも出演者の人数が多かったり、時間的に制限があったため、もっと有田のプロレス話を聞きたい、と常々思っていたところに、有田一人が(アシスタントやゲストはいるが)ある週の週間プロレスについて存分に語る、というこの番組の企画は、ストライクゾーンど真ん中に来た、という感じだった。

ただアマゾンのレビューにもあるように、30分という時間の制限は短い。有田のハードスケジュールを考えればやむを得ないが、最低でも一時間は時間をとって欲しかった。この人と松村邦弘は泳がせるだけ泳がせて欲しい、と考えているのは私だけではないはずだ。

それでも、昭和から平成にかけて、様々なプロレスの試合やリング外のスキャンダルを、絶品の物まねも交えながら、縦横無尽に語る有田の語り芸はやはり素晴らしかった。

それ以前の「アメトーーク」で、ケンドーコバヤシなどとともに、プロレスが全くわからないであろう視聴者に向けて、面白くなおかつわかりやすく解説していたのを見事なものだ、と思うとともに、これは一種の教養番組だな、と考えていた。この「有田と週間プロレスと」にも同じ印象を持った。この番組はプロレスの教養番組なのである。

そのように週に一回の配信を楽しみにしていたのだが、第7回 「敵はまさかの「週刊プロレス」!?天龍、全日離脱事件!」の回は不満が残った。

この回は、いわゆるメガネースーパーのプロレス業界への参戦、それを当時ヒステリックなまでにバッシングした「週間プロレス」、そしてそのバッシングに屈する形での新団体SWSの崩壊、という話題だったのだが、有田は「週間プロレス」のSWSバッシングは、全日本プロレスへの浪花節的な同情であるかのように語っている。

現在、当時の「週間プロレス」が執拗にSWSバッシングをした理由は、プロレスファンには周知の事実である。

というのも当時の「週間プロレス」編集長ターザン山本こと山本隆司自身が、2010年に出した「金権編集長 ザンゲ録」で、SWSバッシングをジャイアント馬場から直接依頼され、裏金を全日本プロレスからもらった上、最終的にはメガネスーパー側からも口止め料を得ていたことなどを暴露しているからである。

有田ほどのプロレスファンが、こうした事実を知らなかったとは考えにくい。確かにこれは「週間プロレス」にとっても恥ずかしい歴史ということになり、番組が「週間プロレス」と提携している以上、言いにくかったのもわかるが、それでは何故この時期の「週間プロレス」を選んだのだろうか。

それでも今もっとも面白い番組だ、という感想に変わりはないが、それだけにこの第7回の腰の引け方は残念だった。

 

 

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「おしどり右京捕物車」という時代劇について 2

1974年という時代

 最終話では世直し党という義賊が登場し、江戸の民衆の間で絶大な支持を得る。しかし、この世直し党の実態が単なる火付け盗賊の類であった。

 この世直し党が、放送当時に世間を騒がせていた左翼テロ集団を指していると思われる。この最終話の脚本を書いた佐々木守は、日本共産党に入党した時期もあり、日本赤軍の支持も表明していた。それどころかこのドラマの放送されていた1974年には重森房子の書いた「わが愛と革命」の構成を担当していたことでも知られている人物である。現在、日本共産党の入党暦や日本赤軍への支持などというと驚くかもしれないが、この当時の脚本家、映画監督、小説家などでは特に珍しくはなかった。ただ、この最終話を観た限り、この時期には佐々木守もそういったイデオロギーに対してある程度冷静な距離感を持っていたようである。この最終話が放送される一月程前には三菱重工爆破事件が起こっており、安保闘争の敗北やあさま山荘事件なども含めて、ある程度は残っていた一般大衆の左翼団体に対する共感も完全に冷めていた。

正邪の逆転

 世直し党は自分たちに元与力がいる、というデマを流す。世直し党を捕まえてみると、実際にはそのような元与力はいなかったのだが、民衆は奉行所に押しかけ、元与力を出すよう連日騒ぎを起こすようになった。困った奉行所は威信を保つために右京をスケープゴートにする石を固める。当然この申し出を断る右京だが、元同僚の秋山や妻・はなの必死の懇願でやむなく世直し党の一味として、文字通り石もて追われるように江戸を去ることになるのである。

 正直、第1話から観てきた者としては、ため息がでるような結末であった。なにしろドラマの途中では、不自由な体となり奉行所を追われながらも悪党を退治する元与力として、江戸の庶民に大きな尊敬を集めていた、という設定になっていたからである。

 最終話で正義が逆転する、あるいは相対化されてしまうというドラマは1970年代にいくつかあった。印象的なものでは、時代劇ではなくアニメーションになってしまうが「海のトリトン」や「ザンボット3」(ともに富野喜幸=現・富野由悠季)のちゃぶ台をひっくり返すような最終話などである。しかし、これらの作品は、あくまで主人公の主観の中で(それは視聴者の主観でもある)いわゆるパラダイムシフトが起きているのであって、この「おしどり右京捕物車」の神谷右京にとって一切、正邪の逆転は起きていない。ただ世間の評価が完全にひっくり返ったため、それまでの右京の苦闘はいわば社会的に否定されてしまったのである。

 第1話で既に人生のかなりの部分を失った上、社会的な評価さえも失ってしまった右京とその妻・はな、失ったものと引き換えに何を得たのだろうか。あまりにも大きなものを失った二人が得たものは、失ったものに匹敵する大きく絶対的なものでなければならないはずだ。最終話のラストシーンで二人が交わす会話は、なにもかも失ったからこそ得られた絶対的なものと言えるかもしれない。しかし、それが二人が失った、あまりにも大きなものに比べて果たして釣り合っているといえるかどうか…。これほど主人公を厳しく追い込んだ時代劇を少なくとも私は知らない。しかし、脚本の佐々木守も含めて作り手たちは、その判断を観る者に委ねたのだろう。特異な設定とそこから生まれた独特の殺陣、そして意味深長なラストシーンによって、この時代劇はいつまでも心に残る作品となった。

「おしどり右京捕物車」という時代劇について 1

ヒーローは何故ハンデキャップを背負うのか?

 TV時代劇「おしどり右京捕物車」(全26回)を観た。

 この作品はご存知の方も多いと思うが、下半身の自由を失った元与力が手押し車を妻・はなに押させ、鞭と刀で悪人に立ち向かってゆく、という現在では地上波のドラマとして放送が難しい作品である。

 ハンデキャップを背負った時代劇ヒーローといえば、座頭市丹下左膳などがあるが、それらのヒーローにくらべてもリアリティという点で、かなり厳しい設定である。しかし、座頭市丹下左膳がそうであったように、この作品もいわゆるリアリティとは別な次元で、観る者を納得させるものがある。

 それは第1話で描かれる右京と妻・はなの失ったものの大きさである。第1話で右京は下半身の自由を奪われたばかりでなく、与力としての職や家を失い、妻・はなが身籠っていた子供さえ失ってしまう。右京の障害の程度が現代の医学でどの程度のものなのかは、劇中はっきりと描かれていないが、二人がもはや子供を望めないことは、いくつかの場面で示唆されており、人生のかなりの部分を失った夫婦の物語として、このドラマは始まる。

 人は人生において多くの場合、理不尽や不平等を感じながら生きている。失う者はより大きなものを失い、得る者はより大きなものを得る、といったように。だからこそ、人はフィクションにおいては、こういった喪失と獲得が釣り合ったものであって欲しいと願い、いわば不均衡の是正のために超人的な力をもった存在が求められる。つまり、ここでヒーローが必要とされるのである。

 しかし、ここで矛盾が生まれてしまう。理不尽な不均衡な世界を是正するために必要なヒーローは超人的な力を持たなければならないが、そもそもヒーローが凡人と違い超人的な力を持っていること自体が、不平等であり不均衡なことなのである。つまり何故ヒーローは我々と違い、超人的な力を得たのか、ということが問題となる。そこでヒーローは、超人的な力の獲得と引き換えに、それに匹敵する大きな能力や人生の大事なものを喪失している、という設定が必要とされるのである。ここで何らかのハンデキャップを背負ったヒーローが誕生するのである。

 ※ここでいうハンデキャップとは身体的な障害だけではない。例えば「刑事コロンボ」でコロンボはイタリア系の刑事が富裕層の犯人を追い詰めるというパターンが多かったが、このコロンボも(あからさまに強調はされてなかったが)ある意味でマイノリティという社会的ハンデキャップを持ったヒーローといえる

 多くの人が座頭市丹下左膳のリアリティに若干の違和感を感じつつも、長年にわたって支持してきたのは、以上のような、理屈というより潜在意識で、こうあって欲しい、こうあるべきだ、と感じてきたからだろう。

 この作品で、右京の殺陣のリアリティの低いという評価(手押し車を押す、はなが後ろから狙われたらどうするのか、といった当然の疑問)は当然あるだろうが、そういう次元で評価すべき作品ではないように思われる。この作品の評価が右京とその妻・はなが何を失い、何を得たか、そしてそれが観ている我々にとって納得できるものだったかどうか、ということだろう。要するに観終わった後で、腑に落ちたか落ちないか、ということである。その意味で佐々木守脚本の最終話をどう観るかで、この作品の評価は変わってくるだろう。この最終話について考えてみたい。